ayasansan’s blog

思うままに感覚や表現を書いてみたり

色んな迷いはあります

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ものすごく落ち込んでいて。葛藤やジレンマ、自分の指針にして来たものをひっくり返してみたり、、でもそんなジャッジに疲れ果て、何が本当なのか、自分の思いさえも、好き嫌いでさえも自信のあった数々が時として急に疑わしく信じていたのにアレもコレも全部が違ったの?!嘘偽りを信じて生きて来たのか?じゃあ本当のものは一体なんなんだよ!?というような、、気持ち心情になる事が今までも生きて来た中であり、、しかしこういうのって皆どれも外側からの意見とか価値観とかねばならないに振り回されてる時に多くあるというか→自分が疲れている休むべきという時程に弱っている時程になるというか。。要は自分らしさが減って来ると本当の自分から離れて来てしまうと自分が弱まって強くあれなくなり、、なんだか全てがわからなくなって来てしまうのかなーなどと思う訳です。

色々な事が重なりもします。
急にしかし、こういう弱った状態が続くと何もかもが止まってしまう動かなくなる、心が止まると精神的なそれが同じように目の前の現実世界というか物理的な世界においてもあらゆるものが止まる停滞し始めてしまう。。
進まなくなる。

スピリチュアルで、両極なメソッドを聞く事があります、色んな情報に触れても結局は自分の心地よい有り様である事がいちばんなのかとなる訳で、、住み分けとも聞くけれど、嫌われる覚悟もという一方、全ての人との和がギクシャクするならまだ何かが、、とも聞きます、、誰かが言ったから誰々さんが正しいあの人に着いて行けば良い、、それでは誰々さんの奴隷たる自分のようなもので変わらないというか、、??自分が主人公たる視界で感じられる世界がひとりひとりの人間へのオリジナルの世界で多様な世界の重なり合いの中で産まれるもの??全てがひとつだけれど皆同じでいいなら本当にロボットでもAIだっていい訳じゃないですか、だけれど人間で皆ひとりひとり違うのはそうじゃなくてもいい何か理由があるからじゃないですか??、、とか、そういうのを思ったりしていると、自分の器がこういうものの程度であるとか自分の立ち位置レベルベクトルを実感せざるを得ないとなるでもあり、、そういうのでさえも超越した某かにあるのかな、何か目指したり幸せとか言うものは??

スピリチュアルの情報に触れる事が時としてこうして、楽しくなくなったりする。好きなもののはずが誰かとの間に持ち出した瞬間にマウントの対象になったりだとか。でも、それさえも楽しむ?べきか、超越して行くべきなのか、、考え過ぎてるのか、、なんだかそんな事柄においてモヤモヤとしつつも日々の生活を最低限、、今はなんだか低空飛行みたいな??どうなのだろうですf(^_^;

息抜きも

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大事だなと改めて思う程に、先日までの一連の投稿?記事には自分も根を詰め?気を張り過ぎていて非常に疲れた日々となりました。。

実家の家族よりも、現在の最も身近なパートナーである旦那さんは本当に良き理解者であり信頼が出来る唯一無二な人で「絵でやって行けばいいんじゃないかと思っているけど」という言葉を掛けてくれ、本当にそれでいいの?自分のやりたい事のままにでいいのかな?いいんだ!?みたいな、、拍子抜けする程の答えと言いますか、現実に一緒に歩んでくれるような感じの人です。。

、、自然の中の姿形フォルムに大胆さや豊かさやありのままの美しさを感じ癒されるし、こういう絵が描きたいよなとか、こういう風に少しでもあれたら自分もとか、思います。

無条件にひたむきな純粋でシンプルなエネルギーでしかないというか、多くを望んでいるというよりかは真っ直ぐな欲求のままに日々を過ごしているというような?難しく考えるというよりもただ簡単で根を張り葉を伸ばし季節に合わせてのびのびと生きているような気ままさが、本当に良いなと思うのです。。

人の良さもありますが、自然の中にあるものの良さもまた好きだなと思うというお話でした。

自分の中の感情や価値観のレイヤー

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があると思う。

、、昨日までの、その自分の中において最上級であるブラックでダークネスな思い出と数々の味わい感じ続けたりグサグサと痛め付けられたような側面はあるひとつの層であっていつも表に出るものではなくバックグラウンドであったり心の奥底にしまわれてしっかりと鍵をかけられて固く閉ざされ自分の事ながらも常日頃からの自分には影響の無いような場所に追いやられているのが、まぁ常なる状態ではあるかなと思う。

そんな精神状態では楽しくはない面白くはない。
そりゃあ自分は好きなものや楽しい事や好奇心や知識欲を満たされるような思いを感じたり経験していたいものである。

であるからして、平生の自分はそんなにネガティブやってる暇あったら楽しいとかポジティブがよろしいなと思い、そういったものを選ぶ選択するという心の姿勢の人間ではある。。

合うor合わないの話だとは思う、一緒に居てお互いが幸せ楽しいポジティブに居られる平等に等しく→これは合うだと思う、、しかし昨日までの私のような心持ちになるネガティブでしかなく自分に価値を見出だせず可能性も希望も全部ぶった切られたような人生終わりみたいなようにしか思えないような言葉を投げ掛けられたりそういう人間関係や出来事しか産まれないようなもの→これはそもそもが合わない、お互いに人間性が合わない、一緒に居なくてもいいし、お互いが相手の意見も嫌な事言われるのなら聞かない受け入れる必要性もない。

誰もが、自分自身を守って、大事大切にするのが、ありのままの本当の自分で居る事こそが本当の幸せだと思う。。

無理はいけないと思う。

結局は、類は友を呼ぶ、自分の抱いている某かが同じようなものと引き合う、磁石のように。だったら自覚出来たものから選び直すが最良である、し、逃げるは恥だが役に立つみたいなで多少ぶっきらぼうになっても自分を守るためにはちょっと愛想の悪い人のようになってると感じてもその場や人から距離を取り離れる事は悪い事じゃない、むしろ自分にも人にもいい事であるとさえ思う、それがもし本当に自分あなたにとって辛くて嫌だとか何か違和感があってなんだかわからないけれどもう違うと思えるのなら。

隠しようがない/正直である方が

f:id:ayasansan:20210413230411j:plain楽で、物事はスムーズに単純明快でシンプルに上手く行く、と私は思っています。

、、私の母は、私の病気であるもやもや病を難病を隠し通させようという思いがありました、父も人に大っぴらに言うもんじゃないという意見を持っていました。母は、本当に認めたくないぐらいのレベルで、それこそ変なレッテルみたいな風に聞こえが悪いから、、私という人間が「大事な娘が難病もやもや病を理由に人様から不当な扱いを受けるというような事を心配しての事だ」と私に言いました。母なりの「母親」「親」として当然の子供へ出来得る事をしてあげたというような感じでした。


しかし、症状が出始めた頃に母は全く信じてくれませんでした。顔のほっぺたがしびれて上手く喋れなかった時とっさに筆談を試みた私に「馬鹿な事してないでちゃんとしなさい、親をからかって何だと思ってる」と言って私を朝の台所にひとり残し怒って外に出て行きました、、夏休みでラジオ体操に行って帰っただけで私自身はもう発作が出るレベルでした、、父がちゃんと私の話を聞きこれはいかんと病院へ連れて行くよう母を説得してくれ、病院に行ったら即入院と手術が決まりその夏休み中にもう8月の25日ぐらいには病院に入っている自分が居ました。。

母の気持ちもわかるものの、難病手帳も無いし療育手帳なんぞも今さっき調べてて知りヘルプマークもまだ持たず、、それで20年が過ぎ、無知な自分も悪いでしょうが、どうしたって認めたくない直視したくないなんなら無い事にして墓場まで持って行くみたいなその心の有り様を知った時ものすごくショックでした、悲しかった。

もやもや病のある人生が私そのものの人生ですから、この病気が私にあるというのを認めないという事は少なからず私のある部分側面を認めないと言っているのに等しいのです。
したがってそういう点において私と母の心の間にはそういう隔たり距離や隙間があって現時点においてもこの病気に関してはわかり合えず平行線であって、この話題は余程でない限りタブーとなっています。。

なぜ今その話題かと言えば、お金や保険の話などがあるからで、生命保険に入れない身で、体調も波があるし、、絵は肉体労働でないけれども過去にスーパーのレジなどしたもののかなり肉体的にも精神的にも辛く休みは寝ていたり仕事の事ばかりが気になり大変だった上に保険には入れないので無理をして働いて死んでも1円たりともお金が発生しない人間である、、今まで、体を自分を大事に無理をしないようにして生きて来た、手術をしてもらい無事救っていただいた命である自分の身をまさかこういう形で振り返るなぞとは思ってもいなかった。。

仮病だと思われたりする、怠けてるとか、働けて運動も出来て保険にも入れるのならば入りたかったわ!と思ってしまう、バドミントンもしたかったし運動部のランニングも自分も交ざりたかったし自転車だって乗りたかったし、色々と諦めたものがたくさんあるけれどそれでも好きな物事を見出だして自分なりの生き方でここまで来たというのになんだか本当に急に自分自身がちっぽけな無意味な人間というような感じがして来て、、理解の無さと言う点においての思いが溢れ出てしまった。。

必要ならと言うか今からでももらえるなら、難病手帳だってもらいたいし、療育手帳は調べないとわからないがヘルプマークだって持って歩きたいものである、、本当の自分を隠させようとするのは例え親の愛だったとしても子供本人にとっては自分と向き合ってくれていないという虚しさや愛でも何でもないと思える事もある。。

後になって大変な目に遭う私みたいな人が少ないといいなと思っちゃうのでした。

人のプライドを慮る

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という瞬間、とか。

人に嫌な事を言われて自分が泣く、とか、自分だけハッピーな事があってルンルンなのにまわりはドンヨリしていて自分に対してだけ何をヘラヘラしてると言われるみたいなシチュエーション、とか。

そういった時に自分の本当の感情や思いを自分の心の中に押し込めて奥へ追いやってしまって、人に合わせる平静を装う、、でも後で自分ひとりになったらちゃんと引っ張り出して向き合ってはあげるのだが。。そういう風に自分を守る&目の前の気の合わない人やシチュエーションと自分との間やそういう関わりの中に対して波風立てずに人のプライドも傷付けずに速やかに時の過ぎるのを待ち自分ひとりの本当の時間のためだけにやり過ごす。。というような感覚も時にはあるよなぁと思う。

違うものは違うけれど、自分には自分しか最終的には居ないという意識はとても強くあり、それでいて理解者や本当に心地よい居場所のような人間関係が欲しいなとも思える。。ひとりなんだなぁというよりかは人間である以上やはり人と良い関係や楽しいとかなんかいい感じとかポジティブなもので関わり合いたいものではある。。そしてそれが時として当たり前でなかったりもするからこその?やっぱりそういうのがいいと思うし、本来ならそんな難しく意図意識せず楽に気楽に軽やかに自然体でのんびりのほほんと毎日を過ごしていたいのも事実である。

結局はシンプル簡単でラクなのが本当に一番望むものやもです。

自分の在り方を限定されたくない→違いと多様性に癒される

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という事もある。と思います。

自分が昨日、もやもや病で経験したあらゆる事が聞こうともされず上っ面だけ見た目だけでジャッジされて勝手な解釈で判断された、みたいな出来事が久し振りにあり、、未だに自分は病気が無ければ12歳になる前に死んでただろうに!とか植物人間になってただろうに!とか、思ったりするとか病気のために激しい運動や思うように動けない体が着いてこない、、色んな思いをこのもやもや病のために強いられて来たような、と思っていた思っているのを改めて再確認したような、、ショックな、、いっぱい泣いてあらゆる信じて来た事とか好きになった物とか今自分達夫婦にとって進んでいる話とかもう全てにおいてが意味がないというか楽しくないというかそんな気がして来てしまったのだった。。

こういう行き止まりが、無ければ、なんでも出来るのだろうなとは思う。健常者目線の人生設計にはめ込まれそうとか、昨日はそれであり辛かった。健常者が悪いのではない、かと言ってまっさらな健常者でなければとか当たり前も普通も無いと思っている、病気が変にレッテルとなりその人の産まれてから今現在までの人生の何をも知らずに評価されるみたいなようなものが辛いと思ってしまう。。総じて、人は皆お互いに何かしらの違いがあり一目見ただけでは計り知れない経験や思いが多様性があると自分は感じている、思っている。これは、一概に悪いというものではない、良い事もあると言いたい、またそこにどう感じるかも多種多様で誰をもが自由でいいとは思う、しかし誰かの行動や思い心を縛ったり足を止めさせたり辛く悲しくさせるようなものであるという事だけはやめてくれと思うし自分もそうではありたくないと思ってしまう。

一歩進める、自分を人を少しでも優しく受け入れて前へ進める一助とあれる事を望みたいし、そのためであるならば理解しようとか上っ面だけで判断しないとかこの人はどう思われたいのかななど出来得る最大限の想像力でもって目の前の人と関わりたいものであると思う願う。