ayasansan’s blog

思うままに感覚や表現を書いてみたり

隠しようがない/正直である方が

f:id:ayasansan:20210413230411j:plain楽で、物事はスムーズに単純明快でシンプルに上手く行く、と私は思っています。

、、私の母は、私の病気であるもやもや病を難病を隠し通させようという思いがありました、父も人に大っぴらに言うもんじゃないという意見を持っていました。母は、本当に認めたくないぐらいのレベルで、それこそ変なレッテルみたいな風に聞こえが悪いから、、私という人間が「大事な娘が難病もやもや病を理由に人様から不当な扱いを受けるというような事を心配しての事だ」と私に言いました。母なりの「母親」「親」として当然の子供へ出来得る事をしてあげたというような感じでした。


しかし、症状が出始めた頃に母は全く信じてくれませんでした。顔のほっぺたがしびれて上手く喋れなかった時とっさに筆談を試みた私に「馬鹿な事してないでちゃんとしなさい、親をからかって何だと思ってる」と言って私を朝の台所にひとり残し怒って外に出て行きました、、夏休みでラジオ体操に行って帰っただけで私自身はもう発作が出るレベルでした、、父がちゃんと私の話を聞きこれはいかんと病院へ連れて行くよう母を説得してくれ、病院に行ったら即入院と手術が決まりその夏休み中にもう8月の25日ぐらいには病院に入っている自分が居ました。。

母の気持ちもわかるものの、難病手帳も無いし療育手帳なんぞも今さっき調べてて知りヘルプマークもまだ持たず、、それで20年が過ぎ、無知な自分も悪いでしょうが、どうしたって認めたくない直視したくないなんなら無い事にして墓場まで持って行くみたいなその心の有り様を知った時ものすごくショックでした、悲しかった。

もやもや病のある人生が私そのものの人生ですから、この病気が私にあるというのを認めないという事は少なからず私のある部分側面を認めないと言っているのに等しいのです。
したがってそういう点において私と母の心の間にはそういう隔たり距離や隙間があって現時点においてもこの病気に関してはわかり合えず平行線であって、この話題は余程でない限りタブーとなっています。。

なぜ今その話題かと言えば、お金や保険の話などがあるからで、生命保険に入れない身で、体調も波があるし、、絵は肉体労働でないけれども過去にスーパーのレジなどしたもののかなり肉体的にも精神的にも辛く休みは寝ていたり仕事の事ばかりが気になり大変だった上に保険には入れないので無理をして働いて死んでも1円たりともお金が発生しない人間である、、今まで、体を自分を大事に無理をしないようにして生きて来た、手術をしてもらい無事救っていただいた命である自分の身をまさかこういう形で振り返るなぞとは思ってもいなかった。。

仮病だと思われたりする、怠けてるとか、働けて運動も出来て保険にも入れるのならば入りたかったわ!と思ってしまう、バドミントンもしたかったし運動部のランニングも自分も交ざりたかったし自転車だって乗りたかったし、色々と諦めたものがたくさんあるけれどそれでも好きな物事を見出だして自分なりの生き方でここまで来たというのになんだか本当に急に自分自身がちっぽけな無意味な人間というような感じがして来て、、理解の無さと言う点においての思いが溢れ出てしまった。。

必要ならと言うか今からでももらえるなら、難病手帳だってもらいたいし、療育手帳は調べないとわからないがヘルプマークだって持って歩きたいものである、、本当の自分を隠させようとするのは例え親の愛だったとしても子供本人にとっては自分と向き合ってくれていないという虚しさや愛でも何でもないと思える事もある。。

後になって大変な目に遭う私みたいな人が少ないといいなと思っちゃうのでした。