ayasansan’s blog

思うままに感覚や表現を書いてみたり

自分の在り方を限定されたくない→違いと多様性に癒される

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という事もある。と思います。

自分が昨日、もやもや病で経験したあらゆる事が聞こうともされず上っ面だけ見た目だけでジャッジされて勝手な解釈で判断された、みたいな出来事が久し振りにあり、、未だに自分は病気が無ければ12歳になる前に死んでただろうに!とか植物人間になってただろうに!とか、思ったりするとか病気のために激しい運動や思うように動けない体が着いてこない、、色んな思いをこのもやもや病のために強いられて来たような、と思っていた思っているのを改めて再確認したような、、ショックな、、いっぱい泣いてあらゆる信じて来た事とか好きになった物とか今自分達夫婦にとって進んでいる話とかもう全てにおいてが意味がないというか楽しくないというかそんな気がして来てしまったのだった。。

こういう行き止まりが、無ければ、なんでも出来るのだろうなとは思う。健常者目線の人生設計にはめ込まれそうとか、昨日はそれであり辛かった。健常者が悪いのではない、かと言ってまっさらな健常者でなければとか当たり前も普通も無いと思っている、病気が変にレッテルとなりその人の産まれてから今現在までの人生の何をも知らずに評価されるみたいなようなものが辛いと思ってしまう。。総じて、人は皆お互いに何かしらの違いがあり一目見ただけでは計り知れない経験や思いが多様性があると自分は感じている、思っている。これは、一概に悪いというものではない、良い事もあると言いたい、またそこにどう感じるかも多種多様で誰をもが自由でいいとは思う、しかし誰かの行動や思い心を縛ったり足を止めさせたり辛く悲しくさせるようなものであるという事だけはやめてくれと思うし自分もそうではありたくないと思ってしまう。

一歩進める、自分を人を少しでも優しく受け入れて前へ進める一助とあれる事を望みたいし、そのためであるならば理解しようとか上っ面だけで判断しないとかこの人はどう思われたいのかななど出来得る最大限の想像力でもって目の前の人と関わりたいものであると思う願う。